この本もすごく面白いです。

高島俊男「漢字と日本人」文春新書
著者は中国語学・中国文学の専門家。
エッセイストとしてもファンが多いといいます。
冒頭、「カテーの問題」を取り挙げています。
ある中学生の事件について新聞記者の質問に、校長先生が「それは仮定の問題」と答えたら、「校長は家庭の問題だと語った」と報ぜられてしまった、という話。
あるある~そういうこと、と日本人なら誰しも納得する話です。
今「かてい」とキーボードで打ったら、上の二つのほかに「過程、課程、下底、家弟、嘉禎」がありました。
このように偶然同じ音を持つ言葉が非常に多いが日本語の特性です。
それでなぜ会話するときに混乱しないのか。
それは、それぞれの言葉に漢字がはりついているから。
文脈から瞬時に判断し、無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべて聞いたりしゃべったりしているから。
日本語ネイティブなら全く無意識に行っている、この高度に奇妙な言語認識について、なぜこうなったかを、漢字と日本語の歴史をたどりながら、解き明かしていきます。
また、明治以後、戦後の国語改革について舌鋒鋭く切って、日本語というものを考えます。
私も韓国語を知ってから、この「漢字はりつき日本語」って不思議だな~、文字の種類がひとつの言語(大部分がそうでしょう)を母語とする人々は、いちいち文字を思い浮かべながら話をするなんてこと、あるのだろうか、と疑問に思っていました。
同じく漢字語が多いため、日本語ほどではないにしろ同音異義語が多い韓国語ですが、現在は大部分の韓国ネイティブはほぼハングルのみの言語生活を送り、「漢字はりつき」はなさそうです。
それでどうして同音異義語を区別しているのか、不思議でした。
この本を読んでなるほど、と思わせられるところがたくさんありました。
・日本語と漢語はまったく系統も性格も違う言語なのに、漢語を表すための文字である漢字で日本語を書くということは、まったく不便で困難と混乱が伴い、それは今日もまだ続いている。
・日本語の音節の数はおよそ百ほど。たいへん少ない。英語は三千くらい、漢語(いわゆる中国語)は千五百くらいだが、それぞれ四つの声調を持つ。つまり、日本語の音がとても単純なので、日本人は口が不器用。
これは、外国語を勉強する人なら誰しも日々実感していますよね。
・日本人はngで終わる音がとくにダメ。鼻へ抜けて自然に消えてゆく音は「―ウ」または「―イ」とした。
これって韓国語のㅇパッチムと日本語の対応そのままですね。韓国語は漢語のng音をㅇパッチムでかなり近い音で取り入れたけど、日本では「―ウ」「―イ」とすごく訛ってしまった、てことがよくわかります。
・日本漢字音には「中古漢語」の四つの声調のうち「入声(にっしょう)」だけは保存された。入声とは、p, t, k で終わるつまった音。 t ,k 入声にはi もしくはu をつけて発音し、それは今日までそのまま残っている。
これも韓国語の漢字音との対応そのままです。
・訓よみというものができたことによって、日本の漢字は面倒なことになった。
たとえば「とる」というのは日本語(和語)でその意味は一つ。「取る」「撮る」「採る」・・・・など漢字で書き分けるなど不要でナンセンス。純粋の日本語を書くときに、中国語だったら何という動詞をあてるかと悩む必要はない。
・・・この著者の主張には、ほほう~、とうなってしまいました。
違う漢字を書く言葉は違う意味を持っている、と思っていましたが、それはもともと漢語由来の漢字語の話で、「とる」なんて言葉の場合は、もともと和語を無理矢理漢字で書いていたんですね。
キーボードで日本語を打ち込むとき、変換候補が出て、え~この場合どれが正しいのかな?と悩むときがあります。でも、和語だったらひらがなで書くほうが、ある意味正しい、と納得しました。
・言語というのはその言語を話す種族の、世界の切りとり方の体系である。話す言葉によって世界のありようが異なる。
たとえば英語ではbrother,sisterといって、男女の区別だけして長幼の区別はせずにひっくるめてとらえる。日本語は兄、姉、弟、妹、と男女の区別とともに自分より上か下か区別してとらえる。つまり「世界のとらえかた」が違う。
・・・ここでやはり韓国語のことを思い浮かべました。
韓国語では自分より上のきょうだいは형,누나, 오빠,언니 と、自分が男女いずれかによる区別までするのに、自分より下は동생 だけで、ふつう男女の区別はしません。また、甥、姪も조카 だけで男女区別なしです。
韓国語は親族関係の呼称がいちいち細かくあるのに、なぜここだけ大ざっぱ?と思っていました。
これも「世界のとらえかた」といえるでしょう。儒教の影響が強い世界観では、上の世代を敬うことが大事で、相対的に下の者は大ざっぱにとらえておけ、ということでしょうか。
ほかにも、著者の歯に衣着せぬ主張がタカビーではありますが、ここまではっきりしていると心地よいです。
文体がごちゃ混ぜで、和語はなるべくひらがなで、という持論に従ってひらがなが多いのに、気にならずに読めます。村上春樹のいうリズムがあるのでしょうか。
わたしもまねをして、和語はなるべくひらがなで書いてみようとおもったのですが、どれが和語でどれが漢字語だか、わからないことばもあり、この最後の文だけにしました。(「かく」は和語だとおもうのですが、これは高島先生も「書く」と書いています。やはりひらがながつづくとよみづらいからでしょうか・・・)
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